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第2話 すべてを失った夜

作者: ふりっぷ
last update 公開日: 2026-08-16 16:52:50

 王宮の回廊は、異様なほど静かだった。

 ほんの数刻前まで、舞踏会の音楽が響いていたとは思えない。

 床に敷かれた赤い絨毯の上を、クラリッサは一人で歩いていた。

 誰も声をかけない。

 誰も視線を合わせない。

 すれ違う使用人たちは、慌てて頭を下げるだけだった。

 まるで、存在そのものに触れてはいけないかのように。

(……終わったのね)

 その言葉が胸の奥に落ちる。

 不思議と涙は出なかった。

 泣くには、まだ現実感が足りない。

 ただ、頭の中だけが真っ白だった。

 王都追放。

 アルトリウスとの婚約破棄。

 社交界からの永久追放。

 王都立ち入り禁止。

 すべてが一夜にして決められた。

 部屋へ戻ると、すでに荷造りが始まっていた。

 侍女のソフィアが泣きながら服を畳んでいる。

「お嬢様……」

「ソフィア」

 声をかけると、彼女は慌てて涙を拭った。

「申し訳ございません……」

「どうして謝るの?」

「せめて、お供だけでも……と思ったのですが、

 許されませんでした」

 クラリッサは首を横に振った。

「あなたが謝ることではないわ」

 ソフィアは唇を噛みしめる。

「でも、お嬢様は何もしていないのに……」

 その言葉に胸が痛んだ。

 そうだ。

 何もしていない。

 少なくとも、自分ではそう思っている。

 けれど、国中が違うと言っている。

「大丈夫よ」

 そう言って微笑む。

 それしかできなかった。

 すると、廊下から足音が聞こえた。

 老執事グレイスだった。

「お嬢様」

「グレイス」

 彼は深々と頭を下げる。

「馬車の準備が整いました」

「……もう?」

「はい」

 あまりにも早い。

 まるで、最初から準備されていたようだった。

 その時、グレイスが小さな箱を差し出した。

「こちらを」

「これは?」

「お嬢様がお使いになっていた羽根ペンです」

 見慣れた白い羽根。

 幼い頃から使っていたものだった。

「ありがとうございます」

 受け取った瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなる。

 すると。

 ――ピクリ。

 頭の奥が微かに痛んだ。

(……え?)

 一瞬だけ、視界の端に文字が浮かんだ気がした。

【記録保存】

 だが、次の瞬間には消えている。

 けれど、消えたはずの文字の輪郭だけが、

 まだ目の奥にうっすらと残っている――そんな感覚があった。

「……?」

「お嬢様?」

「いえ、なんでもありません」

 気のせいだろうか。

 最近、妙な感覚が増えている。

(疲れているのね……。)

 そう思うことにした。

 やがて屋敷の正門に馬車が到着する。

 黒塗りの公用馬車。

 豪華な装飾はない。

 罪人を送るための馬車だった。

 門の前では、公爵夫妻が待っていた。

 母ミレーユは涙を堪えている。

 父レオポルドは、いつもよりずっと老けて見えた。

「父様……」

 クラリッサは頭を下げた。

「アルベリオンの家名を落としました。申し訳ありません」

 その瞬間、レオポルドの表情が歪む。

「謝るな」

 低い声だった。

「え……?」

「お前が謝る必要はない」

 その言葉に、胸が熱くなる。

 だが彼は拳を握っていた。

「私が……守れなかった」

「父様……」

「記録家門の当主でありながら、娘一人守れなかった」

(どうして今、その呼び方を……?)

 クラリッサは、その言葉に小さな違和感を覚えた。

 けれど、今はそれを問う余裕もなかった。

 その声は震えている。

 母ミレーユも近寄り、そっとクラリッサを抱きしめた。

「必ず帰ってきて」

「……はい」

「何があっても、生きていて」

「はい」

 涙が溢れそうになる。

 だが、堪えた。

 泣けば、二人をもっと苦しめてしまう。

 すると、小さな足音が聞こえた。

「姉様」

 弟のジュリアンだった。

 彼は本を抱えている。

 いつも通り冷静な顔だ。

 だが、その手は少し震えていた。

「ジュリアン……」

「これを」

 差し出されたのは、一冊の小さな手帳だった。

「姉様の研究記録です」

「え?」

「全部ではありませんが、写しを作っておきました」

 クラリッサは目を見開いた。

「いつの間に……」

「少し前から」

「どうして?」

 ジュリアンは少しだけ目を逸らす。

「……嫌な予感がしていました」

 その言葉に、胸が締め付けられた。

 彼は続ける。

「姉様は、自分が思っているよりずっと優秀です」

「え……?」

「だからこそ、目障りな人もいます」

 静かな声だった。

 だが、そこには怒りがあった。

「姉様の記録は消させません」

 クラリッサは思わず笑った。

「ありがとう」

「必ず帰ってきてください」

「ええ」

「約束です」

「約束するわ」

 ジュリアンが初めて微笑んだ。

 そして、馬車の扉が閉まる。

 ガタン。

 車輪が動き出す。

 王都の景色がゆっくり流れていく。

 見慣れた噴水。

 中央広場から続く石畳。

 幼い頃から見てきた風景。

 もう戻れないかもしれない。

 その瞬間だった。

 頭の奥で、誰かの声が聞こえた。

【対象:クラリッサ・ド・アルベリオン】

【追放イベント確認】

(……誰?)

 驚いて周囲を見渡す。

 だが、誰もいない。

 聞こえるのは馬車の揺れる音だけ。

(そうだ、プリムローズ……メモリア)

 聞いたことがある。

 でも、思い出せない。

 その名前だけが、胸の奥に小さな棘のように刺さっていた。

 やがて馬車は王都の門を抜ける。

 遠ざかる尖塔を見つめながら、クラリッサは小さく息を吐いた。

(さようなら……私の居場所。)

 けれど。

 彼女はまだ知らない。

 この追放が終わりではないことを。

 ここから始まるのが、本当の物語だということを。

 そして遠く離れた王宮の塔の上で、一人の王子が王都を見下ろしていた。

 第二王子エルネスト。

 彼は静かに呟く。

「……やはり、おかしい」

 手元の理紋石が微かに揺れる。

 その表面に浮かんだ文字は、たった一行だった。

【記録改竄:検知】

 エルネストの解析の理紋が蒼く輝く。

「オリバー、急いで手兵を見繕え」

「いかがなされましたか?」

「クラリッサ令嬢の後を追う。間に合うといいが……」

 その一言は、いつもの抑揚を欠いていた。

 オリバーは、それに気づいたが、何も言わなかった。

「もし私の予想が正しければ――」

「彼女は追放では終わらない」

 運命の歯車が、回り始める。

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