ログイン王宮の回廊は、異様なほど静かだった。
ほんの数刻前まで、舞踏会の音楽が響いていたとは思えない。
床に敷かれた赤い絨毯の上を、クラリッサは一人で歩いていた。
誰も声をかけない。
誰も視線を合わせない。すれ違う使用人たちは、慌てて頭を下げるだけだった。
まるで、存在そのものに触れてはいけないかのように。
(……終わったのね)
その言葉が胸の奥に落ちる。
不思議と涙は出なかった。
泣くには、まだ現実感が足りない。ただ、頭の中だけが真っ白だった。
王都追放。
アルトリウスとの婚約破棄。
社交界からの永久追放。
王都立ち入り禁止。
すべてが一夜にして決められた。
部屋へ戻ると、すでに荷造りが始まっていた。
侍女のソフィアが泣きながら服を畳んでいる。「お嬢様……」
「ソフィア」
声をかけると、彼女は慌てて涙を拭った。
「申し訳ございません……」
「どうして謝るの?」
「せめて、お供だけでも……と思ったのですが、
許されませんでした」クラリッサは首を横に振った。
「あなたが謝ることではないわ」
ソフィアは唇を噛みしめる。
「でも、お嬢様は何もしていないのに……」
その言葉に胸が痛んだ。
そうだ。
何もしていない。少なくとも、自分ではそう思っている。
けれど、国中が違うと言っている。「大丈夫よ」
そう言って微笑む。
それしかできなかった。すると、廊下から足音が聞こえた。
老執事グレイスだった。
「お嬢様」
「グレイス」
彼は深々と頭を下げる。
「馬車の準備が整いました」
「……もう?」
「はい」
あまりにも早い。
まるで、最初から準備されていたようだった。その時、グレイスが小さな箱を差し出した。
「こちらを」
「これは?」
「お嬢様がお使いになっていた羽根ペンです」
見慣れた白い羽根。
幼い頃から使っていたものだった。「ありがとうございます」
受け取った瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなる。
すると。
――ピクリ。
頭の奥が微かに痛んだ。
(……え?)
一瞬だけ、視界の端に文字が浮かんだ気がした。
【記録保存】
だが、次の瞬間には消えている。
けれど、消えたはずの文字の輪郭だけが、
まだ目の奥にうっすらと残っている――そんな感覚があった。「……?」
「お嬢様?」
「いえ、なんでもありません」
気のせいだろうか。
最近、妙な感覚が増えている。
(疲れているのね……。)
そう思うことにした。
やがて屋敷の正門に馬車が到着する。
黒塗りの公用馬車。
豪華な装飾はない。罪人を送るための馬車だった。
門の前では、公爵夫妻が待っていた。
母ミレーユは涙を堪えている。
父レオポルドは、いつもよりずっと老けて見えた。「父様……」
クラリッサは頭を下げた。
「アルベリオンの家名を落としました。申し訳ありません」
その瞬間、レオポルドの表情が歪む。
「謝るな」
低い声だった。
「え……?」
「お前が謝る必要はない」
その言葉に、胸が熱くなる。
だが彼は拳を握っていた。
「私が……守れなかった」
「父様……」
「記録家門の当主でありながら、娘一人守れなかった」
(どうして今、その呼び方を……?)
クラリッサは、その言葉に小さな違和感を覚えた。
けれど、今はそれを問う余裕もなかった。その声は震えている。
母ミレーユも近寄り、そっとクラリッサを抱きしめた。
「必ず帰ってきて」
「……はい」
「何があっても、生きていて」
「はい」
涙が溢れそうになる。
だが、堪えた。
泣けば、二人をもっと苦しめてしまう。すると、小さな足音が聞こえた。
「姉様」
弟のジュリアンだった。
彼は本を抱えている。
いつも通り冷静な顔だ。だが、その手は少し震えていた。
「ジュリアン……」
「これを」
差し出されたのは、一冊の小さな手帳だった。
「姉様の研究記録です」
「え?」
「全部ではありませんが、写しを作っておきました」
クラリッサは目を見開いた。
「いつの間に……」
「少し前から」
「どうして?」
ジュリアンは少しだけ目を逸らす。
「……嫌な予感がしていました」
その言葉に、胸が締め付けられた。
彼は続ける。
「姉様は、自分が思っているよりずっと優秀です」
「え……?」
「だからこそ、目障りな人もいます」
静かな声だった。
だが、そこには怒りがあった。
「姉様の記録は消させません」
クラリッサは思わず笑った。
「ありがとう」
「必ず帰ってきてください」
「ええ」
「約束です」
「約束するわ」
ジュリアンが初めて微笑んだ。
そして、馬車の扉が閉まる。
ガタン。
車輪が動き出す。
王都の景色がゆっくり流れていく。
見慣れた噴水。
中央広場から続く石畳。幼い頃から見てきた風景。
もう戻れないかもしれない。
その瞬間だった。
頭の奥で、誰かの声が聞こえた。【対象:クラリッサ・ド・アルベリオン】
【追放イベント確認】
(……誰?)
驚いて周囲を見渡す。
だが、誰もいない。
聞こえるのは馬車の揺れる音だけ。(そうだ、プリムローズ……メモリア)
聞いたことがある。
でも、思い出せない。
その名前だけが、胸の奥に小さな棘のように刺さっていた。やがて馬車は王都の門を抜ける。
遠ざかる尖塔を見つめながら、クラリッサは小さく息を吐いた。
(さようなら……私の居場所。)
けれど。
彼女はまだ知らない。この追放が終わりではないことを。
ここから始まるのが、本当の物語だということを。
そして遠く離れた王宮の塔の上で、一人の王子が王都を見下ろしていた。
第二王子エルネスト。
彼は静かに呟く。
「……やはり、おかしい」
手元の理紋石が微かに揺れる。
その表面に浮かんだ文字は、たった一行だった。【記録改竄:検知】
エルネストの解析の理紋が蒼く輝く。
「オリバー、急いで手兵を見繕え」
「いかがなされましたか?」
「クラリッサ令嬢の後を追う。間に合うといいが……」
その一言は、いつもの抑揚を欠いていた。
オリバーは、それに気づいたが、何も言わなかった。「もし私の予想が正しければ――」
「彼女は追放では終わらない」
運命の歯車が、回り始める。
王都リオネールを出発して、半日が過ぎていた。 馬車は石畳の街道を離れ、北へ向かって進んでいる。 窓の外には緩やかな丘陵が広がり、その先には深い森が横たわっていた。 クラリッサは膝の上で手を重ね、流れていく景色を静かに見つめる。 覚悟はしていた。 けれど胸の奥は、不思議なほど空っぽだった。 生まれ育った王都も、家族も、婚約者も、居場所も――すべて失った。 それなのに涙は出ない。 現実として受け止めるには、まだ心が追いついていなかった。「……お嬢様」 向かいに座る護送兵が遠慮がちに声をかける。「お体は大丈夫ですか」「ええ。ありがとうございます」 小さく微笑むと、兵士は気まずそうに目を伏せた。「我々は命令に従っているだけです」「分かっています」 クラリッサは再び窓の外へ視線を戻す。 誰も悪くない。 そう思わなければ、自分が壊れてしまいそうだった。 やがて日が傾き始める。 森が近づくにつれ、妙な静けさが辺りを包んだ。 鳥のさえずりは聞こえず、風さえ止まったように感じる。 馬が落ち着きを失い、小さく鼻を鳴らした。「……止まれ」 護送隊長が低く命じる。 周囲には濃い霧が立ち込めていた。「おかしい」「隊長?」「この辺りで霧など出ない」 兵士たちが一斉に剣へ手をかける。 張り詰めた空気が流れた。 次の瞬間だった。 ヒュンッ!! 一筋の矢が霧を裂く。「敵襲!!」 護送兵の肩を矢が貫いた。「ぐあっ!」 馬が暴れ、馬車が大きく揺れる。 悲鳴が響き、霧の中から黒装束の集団が姿を現した。 一人や二人ではない。 十数人。 全員が無言のまま剣を構えている。 まるで感情を持たない人形だった。「迎え撃て!」 護送隊長の号令と同時に剣戟が響く。 しかし敵は異様なほど強かった。「くっ……!」 一人、また一人と護送兵が倒れていく。「ありえない……!」 隊長は歯を食いしばった。「追放命令だぞ!」 剣を受け止めながら叫ぶ。「国外へ出せば済むはずだ!」 敵は何も答えない。 返事の代わりに、鋭い刃が振り下ろされた。「なぜ殺しに来る!!」「お嬢様! 逃げてください!」 その瞬間だった。 頭の奥に文字が浮かぶ。【アナスタシス・コード起動:失敗】【覚醒条件:未達】(誰なの……) 護送兵に背中を
王宮の回廊は、異様なほど静かだった。 ほんの数刻前まで、舞踏会の音楽が響いていたとは思えない。 床に敷かれた赤い絨毯の上を、クラリッサは一人で歩いていた。 誰も声をかけない。 誰も視線を合わせない。 すれ違う使用人たちは、慌てて頭を下げるだけだった。 まるで、存在そのものに触れてはいけないかのように。(……終わったのね) その言葉が胸の奥に落ちる。 不思議と涙は出なかった。 泣くには、まだ現実感が足りない。 ただ、頭の中だけが真っ白だった。 王都追放。 アルトリウスとの婚約破棄。 社交界からの永久追放。 王都立ち入り禁止。 すべてが一夜にして決められた。 部屋へ戻ると、すでに荷造りが始まっていた。 侍女のソフィアが泣きながら服を畳んでいる。「お嬢様……」「ソフィア」 声をかけると、彼女は慌てて涙を拭った。「申し訳ございません……」「どうして謝るの?」「せめて、お供だけでも……と思ったのですが、 許されませんでした」 クラリッサは首を横に振った。「あなたが謝ることではないわ」 ソフィアは唇を噛みしめる。「でも、お嬢様は何もしていないのに……」 その言葉に胸が痛んだ。 そうだ。 何もしていない。 少なくとも、自分ではそう思っている。 けれど、国中が違うと言っている。「大丈夫よ」 そう言って微笑む。 それしかできなかった。 すると、廊下から足音が聞こえた。 老執事グレイスだった。「お嬢様」「グレイス」 彼は深々と頭を下げる。「馬車の準備が整いました」「……もう?」「はい」 あまりにも早い。 まるで、最初から準備されていたようだった。 その時、グレイスが小さな箱を差し出した。「こちらを」「これは?」「お嬢様がお使いになっていた羽根ペンです」 見慣れた白い羽根。 幼い頃から使っていたものだった。「ありがとうございます」 受け取った瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなる。 すると。 ――ピクリ。 頭の奥が微かに痛んだ。(……え?) 一瞬だけ、視界の端に文字が浮かんだ気がした。【記録保存】 だが、次の瞬間には消えている。 けれど、消えたはずの文字の輪郭だけが、 まだ目の奥にうっすらと残っている――そんな感覚があった。「……?」「お嬢
第一王子アルトリウスが、 クラリッサの瞳を見なくなったのは―― 学園祭の夜からだった。 表面上は何も変わっていない。 けれどクラリッサには分かっていた。 今夜の舞踏会が、決定的な転機になると。 ◆ 王立宮殿、大広間。 冬の終わりを告げる最後の舞踏会は、今夜も華やかな光に満ちていた。 千の蝋燭が黄金の天蓋を照らし、弦楽器の調べが夜を彩る。 貴族たちの笑い声が重なり合い、その中心には一人の令嬢がいた。 クラリッサ・ド・アルベリオン。 紅のドレスを纏うその姿は、誰の目にも気高く美しい。 王国屈指の名門アルベリオン公爵家の長女。 そして第一王子アルトリウスの婚約者。 誰もが思っていた。 いずれ彼女は王妃になるのだと。 ――少なくとも、この瞬間までは。 クラリッサは広間を静かに見渡した。 視線が集まることには慣れていた。 だが今夜の視線は、いつもと少し違った。 値踏みするような目。 哀れむような目。 何かを知っていて、知らぬふりをしているような目。 噂は、既に広まっているのだろう。 それでもクラリッサは背筋を伸ばした。(最後まで立っていなければ) アルベリオン公爵家の令嬢として。 理を守る者として。 給仕からグラスを取ろうとした、その瞬間―― 誰かの肩が、かすかに触れた気がした。「マリア!」 広間を裂くように、アルトリウスの声が響いた。 楽団の演奏が止まり、ざわめきが凍りつく。 階段の下に、一人の少女が倒れていた。 聖女マリア・ルヴィエール。 純白のドレスがこぼれた葡萄酒を吸い込み、赤い花のように染まっている。 震える指先。 青ざめた顔。 今にも泣き出しそうな表情。「……殿下、私は大丈夫です……」 その姿に、会場の空気が一気に傾いた。「聖女様を突き落としたのか?」 「まさか……」 「アルベリオン嬢が?」 囁きが広がる。 クラリッサは静かにその光景を見つめた。 驚きはなかった。ただ胸の奥に冷たい確信だけが走る。(来た) その時―― マリアの胸元に刻まれた聖紋が淡く光った。 黄金色の光。 会場から息を呑む音が漏れる。「理紋が反応している……」 「王家の理紋は真実を語る」 王宮内の偽証に反応し、罪を暴くと伝えられる王家の秘跡。 だがクラリ